Japanese

Lecture

第8回「のぞき穴を見ている人に聞こえるリアルな音って、何?」
〜リュミエールからエジソンへ揺れる映画史を再起動する〜

2015.2.13

大谷能生×荻野洋一×七里圭

音楽家であり批評家でもある大谷氏と、映画だけに留まらず、広く文化批評を扱う荻野氏を招いて開催された第8回は、映画のはじまりをリュミエールではなく、エジソンにフォーカスを当てて読み解こうという試み。
まずは、最近のモニターで映画を見ることが主流になりつつある傾向は「エジソンへの回帰」かもしれないと仮定したうえで、エジソンの最初に作った動画は個人ユース、のぞき穴を見る形であったことに対し、リュミエールはスクリーンに投影してみなで鑑賞するスタイルであったと違いを説明する大谷氏。また、映像の中身に関しては、エジソンはブラックマリアと呼ばれる撮影所に撮られ、運動論的であり科学的、そしてスターシステム(当時の有名人を撮影していた)であった一方、リュミエールは基本的にはロケーション撮影であり、写実主義、自然主義的であると比較。
そこで七里監督と荻野氏からエジソンはYouTubeの動画のようであり、リュミエールは社交的だが、エジソンはオタク的であると指摘され、さらには「踊ってみた」(ニコニコ動画内の動画カテゴリー)と似ているとの発言が飛び交う。
エジソンは目的が先行しており、撮りたいものを撮っているが、リュミエールの場合は目的化されていない世界そのものの広がりが映り込んでいるという荻野氏に対して、しかし全員がリュミエール的なものを求めていたわけでは必ずしもなく、各家庭に一個ある記念アルバムのようなパーソナルメディアというような普及の仕方もあり得たのではないか、と大谷氏は反論。そして、リュミエールを源流とするみなで観てみなで確認し合うという行為の方に映画の歴史はあるとする一方で、動く映像が作られたときに、パーソナルな部分で映像を所有したいという欲望、個人的な快楽というものが抑圧されてきたとし、しかし携帯、モニターの普及に伴ってまた顕在化してきたのではないかという見立てを披露した。
その後、ゴダールはリュミエール的か、エジソンン的か、そして七里監督の『映画としての音楽』は? と話が移行するなかで、映像をもてあそびたい、個人的に付き合いたいという欲望は、視聴環境という面だけではなく、ノンリニア編集によって作り手側からも言えるのではないかという議論へ。七里監督は確実になにか変わった、やはりフィルムの編集はパブリックであったと発言し、いくらでもやり直しが効く(Ctr+Z)非破壊的編集になってから音楽の分析も圧倒的に進んだと音楽批評界の実情を話す大谷氏。
初期の動く映像から始まり、ニコニコ動画の投稿映像や現代映画までをエジソン的欲望の観点で駆け巡り、現在の(リュミエール的な)映画は映像の歴史の中でどれほど歪なものなのかを考えたほうが良いかもしれない、とひとまずの結論が出た本講座だが、なぜ映画のフレームは横長なのか? 携帯のカメラは縦なので、今後は『ダイ・ハード2』のような映画を縦フレームで見てみたい、などなど最後まで話題が尽きぬまま、残念ながら終了となった。

(降矢聡)

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