Lecture

第4回「映画は〈まがいもの〉である、ゆえに想像力を生むのだ/か?」
~映画を思考することと作ることとのあいだで~

2014.11.15

七里圭×吉田広明(映画批評) ゲスト:平倉圭(芸術理論)+ 土居伸彰(アニメーション研究・評論) 

第1期から約半年間の充電期間を経て始まった、七里圭監督の連続講座第2期の幕開きとなる第4回は、前半が吉田広明氏を迎えての過去3回分の第1期の総括、そして後半は、平倉圭氏に加えて、当日折しも海外に滞在中だった土居伸彰氏もスカイプで対話に参戦して、第5回、第6回の議題を予告篇として先出しするという、大盤振る舞いの超豪華メニュー。

まずは、あらためて『映画としての音楽』について。映画版に先立って行われたライブ公演にも立ち会った吉田氏が、映画版とライブ版との違いについて作者に細かく問い質すのに対し、そもそも表象とは一体何か、現物の林檎と表象された林檎は違う、そのズレこそが表象の生み出す力だ、ということを第1期で議論してきたのではと、話が一向に前に進まないじれったい展開に七里監督も多少苛立って、いささか重苦しい前半戦に。

そこへ、一体いつまで待てば自分たちの出番は訪れるのかと、ゲストに呼ばれながらもすっかり放置されたままジリジリとシビレを切らしていた平倉氏と土居氏が、ようやく登壇することによって、澱んでいたその場の空気がすっかり一変し、新たな局面が開けることに。

デジタル化の否定が、そのままテクノロジーの否定と結びついて曖昧に議論が進んでいるようだが、映画はテクノロジーと結びつくことのよろこびに満たされた表現であり、テクノロジーはやはり無視できないのでは、と平倉氏は腑分けした上で、『映画としての音楽』の中で用いられた「セミの抜け殻」という印象的なキーフレーズについて、セミの抜け殻は、本体に対するカス的な存在ではまったくないと、セミの羽化のプロセスを自ら身振り手振りを交えて説明し、聴衆をたちまち魅了。自称快楽主義者で、やはり同作の中で用いられるテンカウントリーダーを、基本のリズムがBPM=60に設定された「ビート」として捉えたという同氏は、せっかく踊らずにはいられない映画なのに、そこへ説明的な字幕がしゃしゃり出てこられると、「いま解説中だから踊らないでください」と待ったをかけられているようで…、とユーモラスに述べ、満場の爆笑をさらう。

一方、「セミの抜け殻」を、本来あるべきものが無い、七里監督ならではの作品世界の新たな延長として受け止めたという土居氏は、デジタル化による近年のアニメーションの変化として、今までの人間観からすると、残酷で非人間的とも思えるようなものが現れてきており、その先駆例と目されるノルシュテインの『話の話』はデジタル化に先立つ1979年の作品で、ことによるとデジタル化と表象体系の変質との因果関係は逆なのかもしれない、と指摘。また、『映画としての音楽』と山村浩二監督の『マイブリッジの糸』の試みが、案外近いような気がする、とも。

デジタル技術って、金持ちのためのものと貧乏人のためのものと両方あると思う、という平倉氏は、『ホーリー・モーターズ』や『ゴダール・ソシアリスム』などを素材に、その違いを検証してみたいとし、土居氏は、『オー、ウィリー』という人形アニメーションなどを手がかりに、デジタル世代のアニメーションについてあれこれ考えてみたいと、各自、次回の講座の予告と抱負を述べたところで、内容てんこ盛りの第4回はようやく無事終了。若手の俊英たちが加わっての新鮮な提言や活発な討議で、デジタルによる映画作りの新たな可能性と方向性の展望が開け、早くも次なる講座の開始が待ち遠しい七里監督であった…。

(桑野仁)

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