Lecture

第7回「彼女の声が響くのは、そこに彼女がいるからとは限らない」〜デュラスはサウンドトラックと映像をどのように考えていたか?〜

2015.1.28

小沼純一×吉田広明×七里圭

映画研究の吉田氏に加え、音楽批評家、そして詩人でもある小沼純一氏を迎えて、映画監督であり小説家、劇作家でもあるマルグリット・デュラスの映像と音響の関係をめぐる第7回目の連続講座が幕を開ける。

まずは導入として、デュラス映画の抜粋(『ヴェネツィア時代の彼女の名前』、『インディア・ソング』)を流しながら、映像と音声が同期しないことを確認し、映像を見たときに連想される音、音を聞いたときに思い浮かべるイメージをぶっ違えさせることによって、イメージと言葉を相殺し、どこでもない場所を作り出そうとしたのではないかとデュラス映画を吉田氏が解説。
小沼氏は、映画において音響と映像の結びつきに必然性はなにもないとし、デュラス映画の映像と音声のズレについて着目。七里監督は、そのズレ、音と映像の恣意性は、撮影している時間と音をつける(アフレコ)作業をする時間という実際のズレによって発見していったのではないか、と指摘する。

音と映像を同期させないことによって複数の時間的なディメンションを作り出し、さらには同じ物語を何度も語り直すデュラスの特徴を小説、芝居にも見出していく中、吉田氏は、ズラし、幾度も反復していくうちに語られる内容が「非人称化」していく、と指摘したうえで、その「非人称化」を故郷が奪われ、言葉の中にしか存在しない国(それゆえに誰にも奪えず誰にも壊すことも出来ない)とデュラス自身が語る「ユダヤ性」にひきつける。歴史の中では確かに刻印された痕跡がだんだんと消去されていき、どこでもない、誰の者でもない言葉や映像になっていく。
吉田氏の発言を受けて七里監督から、それはもはや歴史が消滅したサイバー空間的なものと同じものになるのか、それともデュラスには歴史(という痕跡)が根拠としてあるのか、という新しいテーマが挙げられ、「デュラスはビデオで映画を撮るという発想はあったのだろうか」と投げかける。
小沼・吉田両氏はその質問に「わからない」としつつも、例えばネット上でデータ化されたデュラスの映画をパソコンのモニターで簡単に見ることと、闇の中で身を沈めて光の方を見るという環境とを考えると、デュラスはやはり映画館という空間を前提に考えていた人であり、リュミエールの人である、という返答。むしろメディアを通して環境そのもの自体が変わってしまったという事態を如実に現しているのが、デュラスの映画であり、それは「見ることそのものを問うている」と言う小沼氏だが、映画とはなにか、見るとはなにか、という問題は、作る側、作品そのものの側に加えて、視聴する側の環境の問題と、全方位的に絡まり合っているがゆえの“解きほぐせなさ”に行き着いたところで、第7回の連続講座は幕を閉じた。

(降矢聡)

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