Japanese

Lecture

第6回「現実はアニメーションであり、ヒトはアニメーションになりつつある?」 ~世界認識のモデルとなるアニメーション表現の今~

2014.12.14

土居伸彰×吉田広明×七里圭

第47回衆議院議員総選挙と同日、なんだか暗い気持ちで始まった第6回は、映画研究の吉田広明氏に加え、アニメーション研究者かつプログラマーでもある土居伸彰氏を迎えて行われた。

土居氏は、冒頭からアニメーションの人達にとってデジタルは「善」であると宣言。デジタル化のポイントとして、現状、対等な人間として見なされていない人たちを人間化する、あるいは人間を非人間化するということが最近顕著になってきているとまとめる。そして吉田氏は、土井氏の論文をもとに、アニメーションが現実とは違う表現が可能であるがゆえに、夢の世界を語るもののように思われてきたが、土井氏はアニメーションのほうが現実の上位モデルと考えている。従ってアニメーションが現実を変革する可能性がある、と。吉田氏は、それは映画がデジタル化して改変可能になった現在、映画がアニメーションの中に内包されている、という映画の側からの現状認識と併せるならば、映画を考えるうえで示唆的だと述べる。

いきなり核心に触れる発言が飛び交う議論をクールダウンするように、七里監督の「ちょっとまず例を」という提案を受け、『オー、ウィリー』などの人形アニメーションを上映しつつ議論を続けることに。

土居氏はこれらの作品は、嫌われている部分があるという。以前のアニメーションとは(とりわけ東欧の国営スタジオの文脈では)「象徴」だったが、『オー、ウィリー』は「そのまんま」という批判がある。「象徴」とは一種の隠れ蓑であり、そこには社会的メッセージが隠されていた。しかし『オー、ウィリー』に代表される諸作品には、単に状況を受け入れる人達がいるだけ。その理由として国家や全体主義というような強い敵、ひとつのベースとなるような現実感覚がなくなってきているからだ、と説明。

また、デジタル時代のアニメーションがどう変わったかという話題では、アニメーション性とは作り手のユニークなリズムを持つ「動き」を表現するものであったが、アニメーション・ドキュメンタリーと言われる『戦場でワルツを』や『奴隷たち』では「動いていない」と批判されている面もあると紹介。それらはデザイン性にフォーカスが当てられており、そこには使用したソフトによって規定された動きがあるだけだ、という批判だ。

デジタル化によって「動き」に価値を見出さないようなアニメーションの現在を七里監督は、フィルムだと大変な技術を要していたオーバーラップ、ディゾルヴが簡単に出来てしまう実写の現在と重ね合わせる。
熟達した技術を持たずにソフトさえあれば誰もが作ることが可能である、つまり「民主化された」という意味でデジタルは「善」なのだ、という土居氏。

それでは、「動き」が大事ではなくなったアニメーションの新しい価値の浮上によってでてくるリアリティーはとは一体なにか。

「運動」によって描かれる「生命感溢れる人間」であったり、ユニークな「個」というものが、フィクションにすぎないものになっているのが現在ではないか、としてドン・ハーツフェルトやデイヴィッド・オライリーの作品を鑑賞する。アナログが持っている温かみに対してCGが持つ、なんの「リファレンスもない」「野性的な」表現を好むオライリー。そういったCGの特性は、個性やユニークさからかけ離れたような人達のことを描くにふさわしく、作品は極度に抽象的で、誰のものであるようなものになっていく。そして、人々が匿名化して抽象化されていくようなそれらの作品にリアリティーやアクチュアリティーを感じるのは、特別な「個」や世界というもののリアリティーが消失した“のっぺりとした現実”というリアリティーがあるからなのではないか。

そのような現在に対して、個人的に評価をするか、と問われた土居氏は「しょうがないと思う」と発言。そういった現在を批評的に捉える表現として現在のアニメーションはあるのは理解できたが、果たしてそれは心動かされるものなのだろうかと疑念を呈する七里監督。

しかし、いわゆる描くべき「現実」「リアル」がなくなった現在、実写とアニメーションを組み合わせるような作品が多く出現している。実写では外面的特徴や社会的政治的文脈により外的状況の特殊性に還元する思考がどうしても生まれてしまうが、現実をトレースしつつ抽象化(アニメーション化)することによって、カッコ付きの「普通ではない」人たちを人として描くことが出来き、そこには救いもある、とする土居氏。

これら最新のアニメーションを通して「現在」や「人間」ついての議論が展開した、第6回の連続講座は、リアルなものと抽象化されたアニメーションの世界とが曖昧な状況というものを逆手に取り、リアルとアニメーションの境界の揺らぎを認識することで、なにか新しいリアリティが抽出され、それは人間というものの境界、概念自体を少しずつ変えていけるかもしれない、と現在の「どうしようもない」状況に対して幾ばくかの希望が語られ幕を閉じた。

(降矢聡)

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