Lecture

第9回「静止したイメージは映画になるのか?あるいはクリス・マルケルは、なぜ猫好きか?」

2015.9.21

金子遊×三野新×七里圭

映像表現が映画だけではなくなっていること、映像が氾濫している昨今の状況と映画はどういう関係にあるのか、映画辺境にフォーカスして思索を巡らせていこうという第三期。今期のホストの一人であり辺境に旅立つナビゲーターとして、批評家・映像作家である金子遊氏、加えて写真家・演出家である三野新氏をゲストに迎え、「クリス・マルケルを通して写真と映画について考える」第9回目の連続講座が始まった。

まず、『ラ・ジュテ』の映像を見ながら対話を進めていく。「映画と写真の境界の話と繋がっていけばいい」と語っていた三野氏は、「きわめて曖昧な状態のまま構成されているが、写真と写真の間の意味であったり、考え方というものがわかるので、映画を見ているような形として見受けられ、かなり明確に映画的な文法に従って構成されている」と指摘。
七里監督も、画と画をつなぐまでの時間の流れ、ディゾルブの多用に注目。
「写真だから、動画から時間を奪われて、無時間になっていって、写真の隅々まで目が行くという金子氏に対し、「写真には時間がある、ゼロ時間じゃないと思っている」とする七里監督。
更に、「(『ラ・ジュテ』は)単純に写真で構成されているという風にも言えない。一つキズをつける、一瞬動画が混ざりこむことによって、マルケルはなんらかの目配せをしているような気がする」と金子氏の解説に続いて、「説明すればするほど、感動が逃げていく」という七里監督の鋭い指摘に笑いが起きながらも、思索は続いていく。
金子氏が「動画で撮ったものをわざわざ写真に切り出して、この世にならないような命みたいなものを吹き込んでいる、つまり写真=無時間の中で宙づりにされているものを、アニメイト=動くことによって、そこに吹き込まれた何かが動き出すようにしている」のだと指摘。続けて三野氏も「ミイラと写真は同じもので、それをアニメイトするとゾンビになる」と言及した。

次に、シネ・トラクト『No.4』と『No.5』を見ながら、「写真を動かしてアニメイトするだけではまだ映画ではなく、マルケルの場合はイメージと言葉であり、文字が介在してこないと映画にならない。文字とイメージの間に何か(字幕)を作ることによって、映画に何か意味を出そうとしている」という金子氏に対し、『もしもラクダを4頭持っていたら』を見ながら「逆に言葉じゃない、イメージの連想ゲームのような、映画の文法とは違ったやり方としてこの時期のマルケルは実験をしていたんじゃないか」と三野氏が指摘した。
そして、『彫像はまた死す』の映像が流れたとき、写真をどう動かしてそこにアニメイトするのかということと、本質的には動かない彫像を動かし、映画化して命を吹き込むという手法が『ラ・ジュテ』と共通しているのでは、と金子氏・三野氏が指摘。更に、冒頭で流れた七里監督の『音から作る映画』は“コレ”=映っている彫像なのでないか。単純に記録したものを見せるのではなくて、それをもう一回何かしらの手段で動かして作品化・写真化させるっていう行為に共通点を感じた、と続いた。
また、『動くな、死ね、甦れ』という映画のタイトルについて「なんでわざわざ一回殺してまた生かさせるような面倒くさいことをやっているのか、意味が分からない。でも、それってまさに映画だ」と三野氏が言及すると、「それが映画なのか」と金子氏・七里氏も頷くところがあったようだ。
そして、金子氏が「素材としてイメージや動画を扱っているという、ある種の冷たさ、突き放した感じが、『音から作る映画』とマルケルの一連の作品に共通してみられるのでは」と指摘。
『ラ・ジュテ』の続編と言われている『真昼のフクロウ 序章「うつろな人間たち」』を観ながら、映画とは言えないかもしれないけど、最終到達点の一つなのではという結論に至る。
人間が一番初めに猫にあったのが紀元前5000年頃だったらしい。そこまで戻らないとクリス・マルケルのことはわからないかもしれない。まとめようとしてもまとまらない。会場の皆で持ち帰る、ということで幕を閉じた。

(永井里佳子)

9_1

9_2