Lecture

第10回「映像アートと、アート系映画の違いって何?」

2015.11.22

生西康典×三輪健仁×金子遊×七里圭

映像を扱う表現が映画以外にも多様に広がっている現在。七里監督が「一番やりたかった」という、映画とその周辺領域、その関連を考えてみる第十回は、まずは批評家であり映像作家でもある金子氏が、80年代から 90年代半ばまでのミニシアターブームを振り返ることで「アート系映画」を考察することから始まった。
美術の側からは、東京国立近代美術館主任研究員の三輪氏が「映像アート」の定義が判然としてないと断りつつ、アーティストが映像を扱い始めた出発点の一つを60年代から70年代初頭に位置付ける。そして、アーティストたちは映像をジャンルとしてではなく、マテリアルとして扱っていたと説明。
続けて、美術の側には「自分たちの作っているものは映画ではない」と主張する側面が強くあり、(今から考えるとピュアにも聞こえるが)映画館での鑑賞経験を、現実の時間と空間(観客における時間と空間)が、映像=虚像としての時間と空間の中に、吸収、収束されてしまっていると捉える彼ら(美術側)は、現実の時間・空間と虚像の時間・空間を等価とすることを目指していた、と述べる。そして、芸術が基本的にイリュージョン(幻影・虚像)に支えられてきていることに対してアンチ・イリュージョンの態度があったと解説。
また、当時(70年前後)の美術家たちの作っていた映像には「行為の記録」 と「空間全体の要素」という2つの特徴があったとしたうえで、「記録」というものは、果たして作品たりえるのかを、今日の問題の一つとして考えたいと展開し、ブルース・ナウマンやリチャード・セラを紹介。
彼らの映像作品を通し議論していくなかで、映画館/美術館における鑑賞体験の差異から、アンチ・イリュージョン、「表現」と「記録」、インスタレーションやパフォーマンス、フィルムとビデオなど様々な話題があがり、アンディ・ウォーホルの『エンパイア』や、 紀伊国屋ホールで上映をしていたフィルム・アンデパンダンなどへも話が広がっていく。

議論も終盤に差し掛かったころ、演出家の生西氏と映像ディレクターの掛川康典氏の手による映像インスタレーション作品『風には過去も未来もない』の6分ほどのダイジェスト版を上映。
東京都現代美術館で展示された際に本作を見て「インスタレーションされた場から引き剥がして、映画館で、シングル・スクリーンで観てはいけない」作品であると感じた金子氏とは逆に、「美術館で見るより今日(アップリンクで)見た方が良かった」と感想をもらし、そう思うのは自分が「映画を志向しているからじゃないか」と語る七里監督。その感想を受けて三輪氏が、その感覚は「映画って何か」を考えるヒントになるのではないかと指摘する。
七里監督がそう感じる理由には、五感がたった一つの開かれた窓(スクリーン)へと流れ込んでいくような感覚を促す映画館の暗闇が関係しているのではないか、と金子氏は述べ、「やっぱり映画館というのは良くできた装置」である、と生西氏が続ける。しかし、ブラックボックスで上映されれば映画であり、ホワイトキューブで展示されていれば美術だというわけではなく、今回のアンチ・イリュージョンや記録という話はとても示唆的だったと述べる七里監督。多くの話題と観点が語られ、大幅に時間をオーバーした第十回は、「映画って何か」を知り得るヒントを多く残し、幕を閉じた。

(降矢聡)

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