Japanese

Lecture

第11回「耳から聞こえる映像はアニメーション?」〜脳内に発火するイメージのありようについて〜

2015.12.13

伊藤亜紗×土居伸彰×七里圭

『闇の中の眠り姫』(映画『眠り姫』のサウンドトラックを一切の光を遮断した暗闇の中で体験する作品)のイベント上映付きの第十一回の連続講座は、「目の見えない人は世界をどう見ているのか」の著者、伊藤亜紗氏と『闇の中の眠り姫』を「アニメーションである」と言う土居伸彰氏を迎えて行われた。
 
『闇の中の眠り姫』の上映中、横を見ると(スクリーンがあるわけではない方向にも)スクリーンのような四角が見え、視覚障害者の視覚(?)体験を実体験したかのようだったと述べる伊藤氏。一方土居氏は、七里監督の映画にはあるべきものが欠落しており、そしてその空白を埋めようとするとき観客の脳内にアニメーションが生まれると指摘。
それぞれが『闇の中の眠り姫』に触発されるなか、話題は早速「映画体験みたいなものを目が見えない人に伝えるとしたら、どういうことをすれば伝わるのか」を考えることで、「映画とはこれである」ということに近づけるのではないか、ということで本格的に議論が開始された。

視覚障害者には視覚がない状態で成立している認知のシステムがあり、それは視覚を別の感覚器官に変換して認識しているかのようであると捉える伊藤氏は、視覚障害者の変換認識パターンを「①視覚を他の感覚に変換し見る」、「②道具で見る」、「③人の言葉で見る」と3種類に分け、それぞれ具体的な事例を用いて説明する。
七里監督は、伊藤氏の議論を「映画は見て聞くものであるが、見て聞くものではないものに変換しても映画なのか、映画になるのか」という問いに変換し、土居氏に投げかけるも、逆に「そもそも七里監督にとって『闇の中の眠り姫』は映画なのか?」と質問を返される展開に。それを受けて七里監督は、今回上映した『闇の中の眠り姫』は、音響作家の種子田郷氏によって音響作品的にリマスタリングされており、映画的なノイズは全て滑らかに均されていると暴露。そして今回の『闇の中の眠り姫』は、「一番映画から遠ざかろうとした」のかもしれないと発言。さらに「目に見えない人にとって映画って何なのだろう? という問いをお訊きしたかったのは、もっと言うと映画ってどこにあるんだろう、みたいな。スクリーンにあるのか、スクリーンと客席の間にあるのか、それとも頭の中にあるのか」と今回のテーマの真意を語る。

土居氏は、アニメーションは本来であれば、映っているものにも、映っているもの人とそれを見る人の間にも、そして観客の頭の中にも全部あるはず、と持論を展開し、その例として『プレイヤーズ・フォー・ピース』を参考上映。
『プレイヤーズ・フォー・ピース』、そして『闇の中の眠り姫』を通して考えると、ビジュアルで直接示してしまうことである種の境界が設定されてしまい、その先を想像することはあまりないが、「聴く」という行為だけだと自らが世界を組み立てていくことの自由度が与えられると土居氏。そのこと共感しつつも一方で、自ら頑張って与えられてないものについての情報を補完することに納得できない自分もいる、普通に流したいという感覚もあると言う伊藤氏は、映画を見ながら眠ること、あるいは映画に没入していくことという受動的でありながら能動的でもある姿勢が、映画とは何かに関わってくるのではないか、と指摘。

そして、土居氏から「映画のなかに当然あるべき要素をなぜそんなに隠したがるのか?」と質問され、見せずに(観客に)補完させること、補完させなければならない、と昔は考えていたが、補完しなくてもよいのかもしれないという気が最近してきた、と七里監督が答えたところで、第十一回も間も無く終了……のタイミングで、最後に伊藤氏が、スマートフォンが最初は聴覚の道具だったが、今やビジュアルの道具になっていることに触れ、いろんなものから視覚を奪ってみたら面白いのでないか、と今後の展望を語りだす。「二つの感覚が連動しているのが映画ではないのか」、という仮説を披露し、視覚を触覚に変換した「オーデコ」というツールを使ってディズニーアニメを見ている視覚障害者のエピソードを紹介した。
 
伊藤氏の「二つの感覚の連動」という言葉に、七里監督はなにか大きな示唆を受けたようで、思わず「みなさん(聴衆)はきょとーんだと思うんですけど、僕はよかったなーみたいな(笑)」と感想をこぼしたところで第十一回も閉幕となった。

(降矢聡)

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