Lecture

第12回「アピチャッポンの映画はどこから到来するのか?」

2016.2.5

金子遊×川口隆夫×七里圭

アピチャッポンの最新作『光りの墓』の予告編と共に連続講座第12回は始まった。
第三期ではお馴染み金子遊氏に加え、七里監督憧れのダンサー・パフォーマー川口隆夫氏をゲストとして迎えられた。
アートと映画、そして「辺境」について考えていこうということで、第9回のクリス・マルケルから紐解いてきた今期。その中でも今日は核心に迫る回であり、アピチャッポンを取り上げざるを得なかった、と七里監督。
続けて「初めてアピチャッポンを観たとき、どこか違うところから現れた映画なんじゃないか、なんか得体の知れないものがやっているような、違う肌触りを感じた。しかし、それが何かは分からなかったので、その謎を知りたい」と語った。

金子氏がアピチャッポンの映像を流しながら、解説を始めた。
まず、映画学校に入って間もなく撮られた、アピチャッポンのスタート地点ともいえる2作品『Bullet』と『0016643225059』を続けて上映。
既に漂う「何だろうこれ」を感じながら観ていく中で、作品中に多用されていたフリッカーについて川口氏が、「昨年観た舞台作品にも一瞬出てきた」と言及。
昨年9月に光州のアートセンターのオープニングフェスティバルで観たアピチャッポンの舞台作品には、生の出演者がおらず、「ふたを開けたら誰も出てこない」ような感じだったと語った。
そこで、七里監督が「アピチャッポンはイメージ。出てくる人が、生きている人も亡霊も同じような扱いで出てくる。そのときに何か見えるような気がした」と語った。

その後も『ASHES』、『アイアン・プッシー』を上映し、金子氏による解説が続いていくのだが、
「そういうことでもない気がする。『光りの墓』が最高傑作とか、すごい強度だと言われれば言われるほど、微妙な感じがする」
「なんかもっと違うでしょっていうか」
「(金子氏の説明は)その通りだと思いながら、そういうことなんだろうかって思ってしまう。そうやって説明できるから凄いんだっていうものって、あんまりすごくないと思う。あの得体の知れなさっていうのは、そういうコンセプトとか美術的なアプローチに括られることでもないような気がして」と、七里監督の疑問は晴れることなく深まっていく。

「『トロピカル・マラディ』を観たときの「なんか変だなー」という、あの謎が知りたい。それがどこから来るのかっていう、そういう問いかけをすること自体無理なのかもしれないけど、どうなんだろう」

『真昼の不思議な物体』を見ながら、「恐らく七里監督が仰ったように、物語という感じが当てはまらない。口承文学とか、説話のように繋げていく。その中で、最終的に全く違うものになっていたり、或いはより高められた完成された集合的な記憶、民衆的な物語になっている、というようなアレゴリーになっているのかもしれない」と金子氏が応えた。
続けて「バラバラなものが組み立っていくところに面白みがあることと、民衆・フォークロアの世界に入っていって、彼らが持っている集合的無意識にアーティストがアクセスしていくという特徴があるのでは」と指摘した。

川口氏も「複数の時間や空間を寄せ集めていく。それが観ている人の頭の中に不思議で複雑な空間が入り組んだ感じが出来あがっていく。それが観ていて気持ちいい」と語る。

そして、七里監督は「最近、特に『光りの墓』において、アピチャッポンのそういうやり方が様式化してきているように感じられる。インスタレーションと、シングルスクリーンっていうのは、実は似て非なるものであって、両方を往還すると、どんどん強度が緩くなっていってしまうんじゃないか」と感じていると語る。

ここで、「インスタレーションに意味を感じていないように見えた」というペドロ・コスタに言及。
「マルチはもうやらない、と。映画監督は職人だから、1:1.33の中にどれだけのものを込められるかで勝負したい」と、金子氏がインタビューした際に語っていた。
「そういうことが言いたかったのかもしれない(笑)」としながら、「映画はスクリーン一枚ではいられない時代になってきている」と七里監督は感じていた。
「ペドロの姿勢は厳格で崇高に感じられるし、アピチャッポンはやれることを素直にしている。でもそこに疑問を感じてしまう。不可分であるはずの手法と内容、最近その鬩ぎ合いが緩い気がする」と続ける。

「どういう風に、あの、えも言われなさが生成されるか」を知るべく『メコン・ホテル』を観ていく中でも、七里監督は「手法としてどんどん洗練されていくにつれ、せめぎ合いがなくなってきているように思う。最初に感じた「なんか得体の知れないものを観てしまった」という感じが薄れてきた」と指摘。

そして、演技をするってどういうことなのか、という話題に。
「劇やお芝居から、共通の言葉・記憶が失われ、形だけになり、違うフェーズに移ってしまった。そのことをペドロもアピチャッポンも意識的・明晰に考えてやっているところがすごいと思う」と語る。
また、金子氏から川口氏に対して「劇の中で自分とは違う使い方をする身体を演じないといけない時、自分の習慣化された身体が邪魔になるのでは」という問いが投げられる。
川口氏は『大野一雄について』の中で大野一雄を演じた際に感じたことを語る。
「一個一個の動作を意識していくときに、不思議なぎこちなさがある。そこには存在感というかエネルギーがあって、面白い可能性があるのでは。(記憶が)ないところの、そのギャップから生まれてくる何かが面白いのではないか」
そして「踊りを観た人たちの記憶の層(今見ているもの・自分が覚えているもの)が行き来する構造もすごくて、『光りの墓』を観ている時にもふってきた」

「映画がなくてもイメージが現れているってことですよね。それはイメージなのか、ボディなのか。イメージってどこに現れるのか」という七里監督の問いかけが続く。
金子氏が「ある演技をすることによって引き出された過去の記憶というものが、その個の身体を越えた何かにアクセスしている瞬間に近い。『メコン・ホテル』もぎこちないんだけど、そこにはハッとする瞬間があって、それを観てるから「なんだこれは」と思うのかもしれない」と語った。

ちょっと核心に迫ることができたのかもしれないところで、幕を閉じた。

(永井里佳子)

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