Lecture

第3回「響きが光と溶け合うことで」

2014.5.10

七里圭×小沼純一(音楽文化研究・批評家・詩人)×池田拓実(コンピュータ音楽家・『映画としての音楽』音楽担当)

2014.4.26にアップリンクで行われたライブ・イベント、『映画としての音楽』をめぐるアフタートーク。同作を発想・製作するに至った七里監督の企図、出発点。スクリーンという枠を超え、観客も映画の中に無理やり巻き込んで作り上げた、拡張映画の一種。一方向に視線を集中させる、映画という制度に対する挑発・攪乱。

本来、恣意的な繋がりしか持っていない映像と音楽を重ね合わせることから生み出される、サウンドトラックというものの不可思議さ。映画と音楽とがベッタリくっついて一体化していることに対する違和感。音楽側の快楽的な欲望とは違う、映画の非情な意思を強制執行するテンカウントリーダー。「サウンドトラックと映像との間にものすごい戦いというか、(音と映像は)併走してはいるんだけども、そこには埋めようのない溝があって、その緊張感が結果的に映画に力を与えたりすることがあるのかなと。」

画と音を別々に撮(録)って合わせる8ミリ・カメラの時代から、映像と共に音も自動的にクリアに録れてしまうビデオ・カメラの登場で、便利になった半面、決定的に失われた何か。ノンリニア編集の手軽さ。コピペ、アンドゥで何度でもやり直しが可能。頭からお尻に向かって順番に時間を繋いでいく映画の作り方からの解放。でもその一方で、時間を自由に操るという、神をも恐れぬ所業に対する畏怖感が欠如しているのでは。

ウォークマンの登場以降、いつでもどこでも音楽を持ち出せるようになったのにやや遅れる形で、今、スマホやタブレット等で、映画も自由によそへ持ち出して楽しめる時代に。「今・ここ」という特定の時間・場所、一回性のアウラからの解放。「聞く」「観る」という受け身の鑑賞から、自分たちも自由に作って楽しむ参加・体験型へ。でも、それらをみんな、「音楽」や「映画」として同一の言葉で語ってOK? 「どうすんの、っていう話ですよ(苦笑)。」さて、ホント、一体どうします、七里監督?

(桑野仁)

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